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那須高原での第二の人生~自然を体感しながら暮らしたい - 趣味遊遊

池田忠一さん(いけだ ただかず)プロフィール
1937年(昭和12年)神奈川県・横浜市(本牧)生まれ。現在は栃木県那須郡に在住。
関東学院大学を3年で中退し東京デザイナー学院でデザインの勉強をしていたが、洋画配給会社「日本ユナイト映画」の宣伝部員募集に応募して入社、7年間ユナイト映画でデザイナーとして活躍。その後は洋画宣伝の会社を経て、宣伝&デザイン会社「アイ・プランニング」を設立して最も多忙な時代を過ごす。
1989年に脳腫瘍で入院、これをきっかけに52歳でリタイア、以後は栃木県那須郡に家を建て、山菜・キノコ採り・燻製作り・ゴルフ・読書等の田舎生活を送る。

5人の悪ガキ仲間、中学3年から一人暮らし、消えたお宝の数々

今回は少し目先を変えて僕の幼少時代&仕事師時代の話をしてみます。

プロフィールに書きましたが僕は元々横浜の本牧生まれです。ですが終戦の1年前、すなわち小学校1年生から秋田の角館に疎開していたのです。結局中学2年までいた秋田時代は、悪ガキ遊び仲間が5人いました。僕のデザイナーとしての始まりは、この頃に水彩画を始めたことに根っこがあります。当時5人の内、3人が絵を描く仲間で、ガッシュという不透明水彩を主に使って描いてました。不透明水彩は、油絵みたいに重ね塗りが出来るんです。この5人はいつも一緒に行動していました。

僕は秋田で猛烈ないじめに遭いました。「疎開ちゃん」と呼ばれて。つまり日本が戦っている時にこいつは逃げてきた奴だという訳です。あともう一つ問題だったのは小学校へ行く格好ですね。横浜(本牧)では普通だったのですが、当時「慶応服」と呼ばれた、白襟を出して紺のジャージ&半ズボンで革靴という格好で通っていました。片や秋田の小学生はわらじ、よくて下駄。服はほとんどつぎあてで、袖は鼻水でピカピカみたいな感じでした。だから仲間はいじめに遭っているもの同士が結束した面もありますね。結構自由にやりたい放題&いつも一緒という感じの遊び仲間でした。

その後、あまり喋りたくはないのですが、中学1年の時に両親が離婚しまして、中学校3年生の時に両親と別れ、横浜に戻って一人暮らしを始めました。それ以降、両親とは住んでいません。そういえば母が(93歳ですが)この前、那須に訪ねてきました。その時のことは・・・まあいいでしょう。結構恥ずかしくて喋りたくないことがいっぱいあります。

当時、本牧に面倒を見てくれる材木屋のおじさんがいました。他に、遠い親戚筋に海苔小屋という倉庫を持っている人がいて、そこの2階を下宿としてタダで貸してくれたのです。程なくそこに妹も転がり込んできました。4畳半だったか6畳だったか、あまり覚えていません。当時下宿のとなりにアメリカのGIと「パンパン」と当時呼ばれていた日本人女性が住んでいて、受験勉強をしている高校生には相当刺激が強かった事を覚えています。覗くなっていったって、ムリだよなあ(笑)。妹には必死で隠したけど「お兄ちゃん、いい加減にしたら」とか言われたりして。ちょっとやばかったね。

若い頃の僕は年上の芸者と暮らしたり、かなり破天荒な生活もしていました。女性に関しては喋りたくない事が山ほどありますが、惚れると一途になっちゃうほうなのですね。というより、その頃から女にだらしないというか、女性に上手に甘える癖がついていたのかもしれません。僕は自分で怠け者で、ぐうたらな人間だと思っています。薄汚いみっともない人間だからこそ、生き方だけは出来るだけ潔くすべき、というのが僕の基本的な考え方です。だから納得できない作品や仕事しか出来ないなら、便利さなどを求めないでスッパリ田舎暮らしをする、という部分があるんじゃないかな。だらしない人間が過去を悔いて・・・でもないか(笑)

話が横道にそれました。ここで映画配給会社の「ユナイト」時代の話に移ります。

結局7年ほどユナイト映画にいたわけですが、亡くなった水野晴郎さんが僕の後に宣伝総支配人という立場の上司として入社してきました。水野さんとは必ずしもウマは合うとはいえなかったのですが、大変才能のある方だったし、映画の見方を教えてもらったと云う面は否定できません。「(水野)サウンド・オブ・ミュージックって何の映画だと思う?」「(私)・・・・」「(水野)これは勇気の映画なんだよ」。つまりその判断が正解かどうかはともかくとして、スパンとわかりやすい切り口がすぐ出てくる方でした。複雑ではないシンプルな映画の捉え方、それが時代とちょうど合えばその映画は当たるんだと教えてくれたのです。

そういえば初めて作らせてもらった映画「アラモ」(ジョン・ウェイン監督、主演)の新聞広告が、読売広告賞を取ったのを覚えてます。作品自体は残ってないけどね。大体みんな何処かへ消えちゃうんですね僕の場合。それで思い出したけど、1966年にビートルズが日本武道館で公演をしましたが、当時まだ結婚してなかった妻のためにチケットを入手してデートに誘ったけど、振られちゃったので一人で見たんです。残ったビートルズの日本公演のチケット、しかも半券が切れていない超レアものも持っていたんですよ。今ならTVの「何でも鑑定団」にだせば、何十万で売れそうですが、これも30年くらい持ってたけど無くなっちゃった。バカだから本のしおりとして使ってたんです。

お宝が無くなった話のついでですが、当時は映画の宣伝部でデザインの仕事ですから、テレビCMや映画の様々な宣材(ポスター・チラシ・パンフレット・POP)などを作る仕事もありました。「ウェスト・サイド・ストーリー」の宣材で、レコードやちらし類が一杯詰った総革貼り&ワインレッド色のアタッシュ・ケースなんてのもありましたが、これも無くなったなあ!あとビートルズの主演映画は4本ありますが、(「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」「HELP! 四人はアイドル」「イエローサブマリン」「Let It Be」)実はこの4本全部に僕は関わっていたんです。それで当時ビートルズのマネージャーブライアン・エプスタインに、ビートルズのメンバーが映画で履いている靴と同じ革靴(ショートブーツ)をもらったんだけど、ずかずか履いてるうちにどっか行っちゃった。あとは・・・もういいね、あ~あ、もったいなかったかなって、いまさらいってもね。



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