企業戦士だった現役商社時代・紙飛行機の仲間
今回は少し私のプロフィール的な部分をお話しようと思います。
紙飛行機の趣味はスタートは早かったのですが、就職して約40年間はほとんど関わらなかったのです。大学を卒業した当時は朝鮮動乱の大不況時代でした。本当は物作りの趣味もあったのでメーカーに就職したかったのですが、叶わず
ケミカル系の商社に就職しました。商社というと皆さんは
三井物産・伊藤忠商事とか大きな
総合商社をイメージされると思います。俗に
「ラーメンから原子力まで」なんて言い方もあります。売れるものなら何でも取り扱うイメージですが、私の在籍した商社は主に技術屋を営業部に置く技術・情報重視の
専門商社であったのが幸運でした。
専門はケミカル(薬品)ですから
染料・医薬品・農薬などが主な対象でした。私の仕事はその中でもメインは
紙関係の染料、具体的には
機能性色素の扱いをしていました。
コピー紙(感圧紙、感熱紙)、FAX用紙、バーコード、切符の日付印刷部分というとイメージ出来ますか?仕事は簡単にいうと
「作り手側(メーカー)」と
「使う(ユーザー)側」の間のマネジメント、コーディネート業務(営業)です。 この感圧コピー紙の市場規模は(1970年当時)北米で日本の12倍、ヨーロッパで5倍、特に
イギリスや
ドイツの製紙技術が高いので結構、海外市場開発の必要がありました。日本の経済復興はめざましく、このビジネスは特にスピードが要求され、
商談はアフター5も含めてということが当然だったのです。
物事には常にいい面と悪い面があるじゃないですか。その道の先輩の指摘で納得できたのは
「相手があって一緒に仕事をしようと思ったら、相手の悪い点を否定語で喋るな、肯定語で喋れ」という事です。
「あいつのこういう点がダメだ」ではなく
「ここをこういう風にしたら絶対よくなるぜ」という訳です。そもそも答えは一つじゃなくてもいいでしょう。

▲国分寺市、本多公民館展示品
今振り返っても本当に忙しかったですね。毎日朝早く家を出て、家に戻るのは大体11時・12時、ほとんど寝に帰るだけの生活でした。仕事に没頭して
趣味をやる時間はなかったのです。けれど
どんなに忙しくても楽しかったですし生き甲斐を感じていました。ただし家族も含め周りの人には迷惑を掛けたかな、という思いはあります。27歳で結婚して子供は女の子2人ですが、
家庭はほったらかし、子供たちの世話は女房にまかせっきり。企業戦士なんて言葉がありますがそれに近かったかもしれません。
定年直前、58歳の時にあった
大学の同窓会がちょっとしたきっかけになりました。そこで何十年振りで同期の
野地昭史(のじあきふみ)という友達と再会したのです。
物作りののめり込みという点では似たような趣向がある事は知っていましたが、話をしてみると彼は地元の
大磯で子供たちに紙飛行機を教えているとの事でした。実は彼は卒業後、
航空自衛隊に就職したのです。飛行機の設計は得意分野な訳ですね。それで私が
「今、国分寺でこんな事やってるんだけど、出掛けてきて一緒に教えてくれないかな」と誘ったのです。
というわけで「ペーパークラフト同好会」の設立は
私と野地と2人でスタートしたのです。幸いなことに2人の得意分野を生かした形で、彼は
紙飛行機の技術的な設計・組み立て、私は
同好会・教室の運営・マネジメント、という感じで上手く役割分担ができました。もちろん私も自分でペンシルロケットの設計をして製作もしたりしますが野地の足元にも及びません。
でも全く絶好のタイミングでの再会で正に
出会いの重要さをつくづく感じましたね。実は今、9月に会社をリタイヤする方が、この会の代表を引受けてくれますので、そのタイミングで私は(同好会の)
相談役に退こうかなと思っているのです。理由の一つは私の病気にありますが、次回は少しその話をしようと思います。
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