満州の想い出
私の世代にとって戦争の記憶はやはり強烈です。同世代の人と語ると
「僕らが死んじまうと、当時を知る奴がいなくなるなあ」とか、その手の話ばかりになりますね。私は昭和20年8月9日、午前0時41分、ソ連の爆撃を直接この耳で聞いた一人です。
私が医者を目指したのは、時代の影響が大きいと思うのです。長野県の飯田中学(5年制)を卒業する頃、同級生と進路について
「お前どうするんだ?」という話になった訳です。当時は頭のいい奴は東大とか海軍兵学校に進学しますが、ボンクラ連中は、
「じゃあ医者でもなるか」という感じでした。
私も含めて当時の同級生は、
「青年は、いずれ鉄砲抱えてお国のために戦争に行かなくてはならない、でもはっきり言えば死にたくないし、まだ死ぬのは早いなと、医者なら死なないんじゃないか」とかそんな事を思っていました。そこで新潟あたりの医学部を受験したのですが、やっぱりダメ。それで「満州に新しい医科大学が出来たらしい、それじゃそこに願書を出すか」という事になったのです。

▲満州国全図
北海道・東京・福岡で入学試験があって合格した人が満州に行くのです。満州は遠かったですね。飛行機なんかありませんから、長野から列車で名古屋経由でまず門司港に行き、船で釜山をめざします。そこからまた列車でソウルに入り、大学のある
佳木斯(じゃむす)まで延々
5日かかりました。
佳木斯(じゃむす)は当時ソビエト連邦の国境となっていた黒竜江に近い街です。近くには満州国時代の開拓地が多く、日本軍が中心となって発展させた街です。
陸軍(関東軍)が駐屯していて、陸軍病院や私の通った医科大学もありました。
私はそこの3期生でしたが、3期生全80人のうち70人は日本人、残り5人ずつが韓国と中国の方でしたね。
そして私にとって決して忘れない想い出がやってきます。それが、
昭和20年の終戦の年の8月9日。この日は私にとって
卒業試験の初日でした。
私は当時寄宿舎住まいでしたが、眠い目をこすりつつ勉強していたその夜の
午前0時41分、あまり遠くない場所でものすごい音が聞こえました。
ソ連の空襲が始まったのです。その音を聞いた連中も大分少なくなりました。
その日卒業試験は中止、関東軍に召集されて
牡丹江(ぼたんこう)に移動しました。本来、女性・子供しか乗れない避難列車に乗り込めたのです。
私はある軍医中佐に
「この戦争は負けだから、若い君達は死ぬことはない、新しい日本のために働け、俺たちはこれから死ににいく、お前たちは逃げろ!」と言われた事を鮮明に覚えています。戦後、山口出身で某医大というわずかな記憶を元に照会したところ、その方はやはり戦死されていました。
それから当時、駅の近くに警備の関東軍がすでにいなかったのを、この非常事態に何故だろうと、とても不思議に思ったのもはっきり覚えています。

▲「方正日本人公墓」
嵐のような雰囲気の中で、8月15日の終戦日は知りませんでした。現地では関係なかったんでしょうか。
結局、学校は卒業試験を受けられないまま、一緒に避難した仲間と8月24日に到着した長春で
「解散式」をやったのを覚えています。集団でいるとソ連につかまるから、今後は一人一人で頑張ろう、と。その後は1年ほど民間の医者として過ごし、日本に戻ったのは昭和21年の10月でした。
現在私は毎年、数人の仲間と中国の佳木斯(じゃむす)市や周辺都市を訪れています。目的は当時の旧満州時代を現地で触れて調査し、満州開拓の記録を残すためです。例えば
方正(ほうまさ)という場所には現在、旧満州では唯一設置が認められた日本人の墓
「方正日本人公墓」があります。多くの開拓団の人々の碑です。

▲「児童福利院」で子供たちと
佳木斯(じゃむす)は現在でも行くのはかなり大変です。新潟からハルピンまで飛行機で2時間半、そこからバスで3時間半はかかります。毎年訪れている佳木斯(じゃむす)市の
「児童福利院」は、いわゆる孤児院なのですが、子供たち、スタッフの方々はいつも暖かく迎えてくれますし、別れるときは子供たちともども涙ぐみます。
この中国行きもこれまでで
15回になります。今年も6月に訪問を予定しています。しかし残念ながら
今年が最後のお別れになりそうです。もう体が続かないのです。
戦争の悲惨さを語り継ぐのは難しいことです。何故あんなに大勢の死亡診断書を書かなくてはならなかったのか?私たちの世代が死んだら・・・あの墓は無縁仏になってしまうのか。結局、何も残らない、そんな時代が来るのでしょうか?少し感傷的になりました。
現在、佳木斯市の佳木斯医大跡には私共同窓会建立による平和記念碑がありますが、何時まで残って平和を祈念してくれるのか気になります。
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