刀鍛冶の修行時代
今回は少し村歌舞伎を離れて、私の若い頃の話をしようと思います。実は
刀鍛冶の修行をしていたことがあります。
前にもお話しましたが大鹿村には高校がないので、私も中学卒業時に飯田市の高校へ進学、下宿生活を経験しました。
その頃に日本刀との出会いがあり、興味を覚えました。
長野の坂城町(さかきまち)に
刀匠の宮入行平*という人が住んでいらっしゃいました。
何となく憧れを抱きまして、当時飯田市にあった骨董屋さんの紹介で訪ねていって、「弟子にしてください・・・」と頼みました。
でも結局叶わず弟子にはなれなかったんですが、その弟子にあたる、
奈良の河内国平(かわちくにひら)師匠のもとで修行することができるようになりました。
*宮入行平(みやいりゆきひら);大正2年生、人間国宝。昭和38年、宮入行平刀匠(当時の刀銘は「昭平」)が
国の重要無形文化財に指定。現代刀工の最高峰 と言われている。昭和52年没。
就職というのではなく、
徒弟制度ですから当然
住み込みで働きました。もちろん給料とか全くないわけです。
休日もなくて、掃除とか雑用とかは山ほどで最初は鉄そのものはさわらせてもくれません。
刀鍛冶は、
「炭切り3年」なんていいますが、要は刀の原料である
和鉄*・玉鋼(たまはがね)を鍛錬する時に使う炭を切る作業から始まります。
松炭(まつずみ)を切って火を起し高温になったところで玉鋼を抽出し、それから
「折り返し鍛錬」をします。
板状の鉄を「向こう槌(むこうづち)」で叩いて延ばして折り返す。それを5回~10回ほど繰り返していくことで均質で強靭な鋼になっていく訳です。
向こう槌は重いですよ。だいたい餅つきの杵(きね)と同じくらいですが、正確に振り下ろせるようになるまで1000回以上もトレーニングするんです。
叩きの鍛錬では師匠と弟子が交互にやることもありますが、1人でやることもあります。現代になってふいごのかわりに機械ブロアを使ったり、槌のかわりに電動ハンマーを使うこともあります。手作業と併用して作業するわけです。これを毎日毎日やって身につけていくわけです。
*和鉄;明治以前に作られた鉄、コークスなどと違い昔ながらの製法で作られた鉄。
炭素分が低く、柔らかく、純度が高い。
ここでちょっと日本刀の知識をお話しましょう。
日本刀は大きく分けると4つに分けられます。時代が古い順に
①古刀(鎌倉時代など戦国時代以前のもの)
②新刀(戦国時代、慶長時代1596~)
③新々刀(幕末~)
④現代刀(太平洋戦争~)
という区分になります。
ものすごく簡単にいうと、刀の
美術的価値は現代刀になればなるほど劣るんです。現代に近づけば刀本来の用途は薄れていきます。
当然のことですが、銃刀法がありますから。本来の刀は人を切る武器なので、用途が失われると同時に美術的価値も薄れていくのです。
一般的には古刀、いわゆる昔の刀、特に
鎌倉期の刀が比類なき名刀が多いと思います。国宝といわれる物もその時代のものが多いです。
私見もありますが、昔の刀は
地金(じがね)というか、
材料の鉄そのものが複雑で、研ぎもまるで違うのです。鉄そのものに
木目(もくめ)が現れる事もあります。
まるで鉄そのものが宝石のように輝いているのです。
それに比べると、江戸期の刀匠は職人としての技術は向上していますが、作為的というか、細かい細工で技巧に走っているような印象があります。
根本的な鉄の製造が江戸時代には大量生産の時代に入っているせいもあるかもしれません。

▲大鹿村郷土資料館「ろくべん館」
ちなみに
「いい刀」とはまず
姿(そり)、品のいい事、そしてバランスの取れた刀だといわれます。持ってみたときに手になじむとか、
重いと感じない刀がいい刀なのです。
こういうものは、刃紋も
’冴えた感じ’がするのです。何ともいえない美しく複雑な景色が現れています。逆にいわゆる
’鈍刀’は刃紋も荒れていて曇った感じがします。
ちなみに全国の刀匠が参加する刀のコンクールが年一回あるんですが、うちの親方はその最高賞である
高松宮賞を取ったこともあります。
日本刀を作る行程は結構複雑で、私の親方でも
年間30ふり程度しか作っていませんでした。その中で焼入れ&研ぎに進み商品になる刀というとせいぜい
2~3本です。
値段的にはもちろんピンキリですが、私が修行していた30年前で
100万円~150万円位。商品として考えると、儲かる世界とは無縁ですね。
例えば
堺の包丁鍛冶屋さんなんて、一日に何百丁と作っている訳です。他の刃物鍛冶屋さんのテクニックに比べれば
刀鍛冶は実に原始的で基本に忠実に作っています。

▲北村さん浄瑠璃弾き語りの舞台
奈良での刀鍛冶の修行は結局、
3年半ほどで終わりました。普通、
刀匠修行は5年いて打たせてもらえるようになるらしいですが私はそこまで到達できませんでした。
修行しているうちに思ったのは、自分の技術では無理かな、という思いでした。好きでやっても売れなければどうなるんだろう?とか余計なことを考えてしまったり。
刀そのものよりは、師匠に弟子入りして住み込みで働くような厳しい生活に触れてみたいと思っていたのかもしれません。
その時たまたま
故郷の大鹿村の災害が重なって役場で人を求めていました。そのタイミングが重なったせいもあると思います。残念ながら刀鍛冶に見切りをつけました。
こうして数年ぶりに大鹿村に戻りました。村役場に就職したあとは、村歌舞伎の育成・伝統保存の仕事に邁進していくのです。
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